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さっき書いた夢のことを書いてみよう。


何種類かの乗り換え駅の夢である。

もっとも最近見たのはメビウスの輪的な駅だ。

夢では分かれた彼女が相方で出てくるのが常である。別府はよく歩いたからか?


ま、二人でJRの電車を乗り換えるだけなのだが、わけがわからなくて目が覚めてしまう。



その日の夢では、ぼくは彼女に別れを告げている。すると彼女は納得したが「ひとつだけ困るのは、別府から乗り換えていたあの路線にどうやっていくのかわからないこと」だとかのたもうておるらしい。それじゃあ行って見ようと二人で市街地から、ありもしないはずの大河を渡る橋を歩き、乗り換え線へ。そんなものも別府にはないのだが。

川向こうにガードしたになった場所にホームがある。ぐるりと幹線道を回り、駅の改札に行くのだが、なぜかいきなりガード下のトンネルになったところから駅に出る。すると方向がわからなくなる。反対向きに改札を入る格好になる。これが曲者である。なぜかどこから乗り換えて、どこに電車が来るのかがわからなくなってしまうのである。ある登場人物は「どこだ?どこから電車が出るんだ??」などと叫んでいる。

なんのことはない改札を入ればホームなのに?
そのホームはなぜかは知らんが京都の京阪伏見稲荷駅そっくり。

あれよというまに電車はホームを出てゆくのが常。なぜわからなくなるのかがわからないである。ゆくべき方向とは反対向きに電車が出るから、生理的にこれは大分にはいくまいと、思ってしまうつくりなのだ。その構造がうまく説明できないのは夢のせいだろう。


乗れなかったから、なぜか二人はまた大きな道路を横断しようとする。どこへゆくのだ?と叫びながらいつも目が覚める。




次に京都の京阪電車の無人駅。そこからJRP奈良線と乗り換えられる次の駅までゆき、乗り換えて京都駅だが。普通とは降りるホームが違う。東海道線のホームではないのだ。あとからわかったことだが、そこからは日本海や信州へ向う列車が出る。東海道線のホームとは直角の方向を向いているホーム。いつもと違うので混乱しやすい。横と縦という構造性が混乱させるホームだ。いきなり階段があり、そこを登って、改札があるが、これが東海道や新幹線の改札から独立しているので、さらに混乱する。


今の京都駅ではない。ぼくが学生時代の京都駅である。今の京都駅なら現実的に迷ってしまう。

なぜその階段の夢かが不明である。京阪の駅には任天堂本社が目の前にある。だいたいわかる人は駅名もわかるはず。寺院の名前である。そう東福寺そばにぼくは19の頃住んでいた。


改札でいつも渋滞する。なぜか知らぬ。降りると(登るときもある)なぜか大坂の地下鉄のホームなのである。京都が大阪に変わる。そこでおしまい。

上るときは、なぜ外に大分の実家そばに会った日豊線の線路に出てしまう。子供の頃、よく母親とツクシを取ったり、中学生では通学立体交差があって、そこで帰宅中に電車に引かれかかった線路だ。


またあるときは、突如大阪上町台地の夕陽丘に出たりして、空掘り商店街をさまよったりもする。

またまたあるときなどは、なぜかはわからない、大阪天満橋のOMMビルの屋上から、阿倍野近鉄に出ていて、そこからぐるっと大阪城を見下ろしながら国道を立体的にくぐる道で、またいきなりOMMにいることもある。時空がゆがむのである。東福寺~京都駅をゆくと、そういう時空の交差があるらしい。


そういえば何度か、寝屋川市香里園の商店街が夢に出てくることもある。ここは住んでいたのでしょうがない。なぜか妻と急な坂道を登っている。そこには婚姻届を出しにいった記憶がある。ところが戻るときはひとり。ひとりで急坂を降り、途中カーブのところにあるわき道に入ってしまう。するとそこは墓場やお稲荷さんがあり、あとは消えてしまう。

商店街にもメビウスがあって、どこかわからない商店街のガード下をくぐり、さまよう夢もある。何か知っているようなある場所を目ざす。するつ商店街は香里園じゃなくて、いきなり大阪の宗右衛門街とか千日前になる。戎橋商店街からなぜか大分の府内商店街に出たり、別府北浜交差点に出たりするから参る。


そのように、最近の夢は、自分の人生での分岐点や交叉して職場を変えた時代を思わせることに気がついた。アップルの社長が言ったように、アイデアは交叉する場所から生まれる。引き出しに仕舞ってあった記憶は、ある日、無関係な考えをしているときに突如割り込み、天啓を与えるものだ。ぼくは人生の転換期にいる。

それは老年への入り口をくぐりかねている自分そのものなのだ。


夢は目覚めるときに見たものだけを覚えておくことが出来る。それ以外は消えてしまう。すべては目覚める間際に見た夢だ。トイレにいきたかったり、寝苦しかったりで目は覚める。細切れに寝ているのが老人だ。するとぼくは肉体的にはもう充分に老年だが、心は子供のように若々しいという矛盾を抱えている人間であることを痛感させられてしまうのである。アンバランス。


少年の脳みそと、老年の肉体が同居して、矛盾しない。しかし人・・・常識的なスクエアな人生を過ごすひとyたちから見れば、ぼくは壊れた人間であろう。壊れていることを、必死に押し殺してきた現役時代。今は全部それをさらけ出していていい年齢。つまりわがままになった。それがじじいなのである。押さえが利かないことが増えてくる。タバコが切れただけで半狂乱にもなる?酒も?常習性脳内麻薬のアンドロジェンが抑えきれない。


そういうことなので、夢で異常世界を見てしまう。まともにしていたいのに、ふっと狂気になったりする。ひとりでいるからかも知れない。オキシトシンの押さえがないからだろう。

こうしてナイトメアにさいなまれながら、分析する晩年のぼくである。しかもそれをはたかたもうひとりのぼくが、にやにやしながら眺めているのが見える。



どもならんわ。