の続き
「帰るデ」
2-4
声をかけた瞬間、大粒の雨。
声をかけた瞬間、大粒の雨。
この釣りのいいところは、店仕舞いが楽なことである。しかも大きなタックルボックスは車に置いて、ポケットサイズのルアーケースとロッド、それにフックはずし用のニッパーだけという軽装備である。こんな空模様の日には欠かせないフード付きナイロンジャケットもちゃんと着込んでいた。
二人はさっさと片づけ、さっさと丘を駈けのぼり、木立の下にとめたよく目立つメタルワインの箱車のハッチをオートロックで開けると、もう濡れる心配はなくなった。
ルアーをはずし、ロッドをたたみ、リールをケースに戻すと、雨脚が強くなった。座席に飛び込み、ジャケットを脱ぎ、キーを入れ、セルさせてからエアコンのスイッチを入れると、入れっぱなしのCDがクラプトンのアコースティック・ナンバーを奏で始める。若い頃私が愛した、デレック&ドミノス時代の”スローハンド”の名曲をアコースティック・バージョンで再演した名盤である。特徴のある聞き慣れたフレーズが、当時の何十分の一のスローテンポで車内を充たし、身体が自然に一息つく。
横殴りの風のせいでクレッシェンド・デクレッシェンドを繰り返す雨の中を、車は帰路を急ぐ。途中、ぬかるんだ工事中の点在するいつもの急坂を避け、市内に直結する、遠回りだが全舗装の県道を選んだ。
「工事もあるし、石切場のダンプ道もズルズルになってしもうたやろうし、こっちから国道へ抜けようや。道は細いけど急がば廻れや。そのまま別府まで行って温泉に浸かるのもいいし、まだ市内は荒れてないやろし・・・」
「オウッ」
思えばそれが金魚と”ピー”との出逢いのきっかけとなるのだが、その時の私たちにはそんなことはまったく想像もできないことだった。
その3
車はダムを離れ、N渓谷を過ぎ、キャンプ場のわらぶき屋根を右に見て、大きく坂道を駆け上がる。このあたりまでは道路は造られたばかりの新道で実に快適である。雨も小降りになり、どうやら本降りに変わるまでには国道にたどり着けそうだった。
車はダムを離れ、N渓谷を過ぎ、キャンプ場のわらぶき屋根を右に見て、大きく坂道を駆け上がる。このあたりまでは道路は造られたばかりの新道で実に快適である。雨も小降りになり、どうやら本降りに変わるまでには国道にたどり着けそうだった。
左側に広がる杉木立も揺れは小さい。右手の小高い丘の上からはホトトギスの、独特の「トッキョキョカキョク」の声も聞こえる。ちょっと慌てすぎたかな、という思いが脳裏をかすめた時、行く手のセンターライン上にかすかにうごめく何かを見たと思うや、通り過ぎざまにチラリと見やれば、どうやら小さな生き物のようだった。
「ナンかおったで!車とめてーー」
急ブレーキとまでは言わない、金魚の叫びに反応して車をとめバックしてみる。
「鳥や、鳥のヒナや」
「ウソー」
半信半疑につぶやいた。山の中の嵐に気はせいていた。バックしたときに踏みつぶさなかっただけでもラッキーだ。
車を降りてみると、確かに野鳥のヒナらしかった。灰色がかった羽をやや緑に染めて、首筋の細かなうぶ毛だけはより明るい萌葱色。片方の羽をばたつかせ苦しげにもがく5センチばかりの小鳥に、再び雨が激しく降りつけた。
捕まえようとする金魚の手を、逃げるようにすり抜けると、濡れそぼった小さな身体を引きずって道路の端の歩道脇に生えた萩の木陰に必死で滑り込む。ふぃふぃふぃ・・・と精一杯の地鳴きをして、親を呼んでいるのか、それに答えるように右手の土手の上からウグイスらしきけたたましい声がした。
ケキョケキョケキョーー!
「ウグイスや!」
そこに居合わせたなら誰もがそう言うに違いない。どう考えてもこの小さなヒナは鶯色をしていた。しかし後になって思い返すと、土手の上の鳴き声は他にもあった。ホトトギスはずっと高い森の奥で鳴いていたし、聞き覚えのない、ピピピピピ~~っという、警告音とも思える細い緊迫感のある声もしていたのかも知れない。けれど、なんといっても最初に聞いたケキョケキョは耳に馴染んだ音であり、見つけてすぐのタイミングもよかった。つかみあげてみると手の中ではかなげに震えるヒナの色は、まぎれもなく二人の知っているウグイス色に他ならなかった。
「ヒナや、ヒナ。大人になれば15,6センチにはなるで。多分、このがけから落ちてきたんやろう。上に親がいるはずや」
「うん、ケキョケキョ、ピーピー鳴いてる。かわいそうに、この子を探してるンやわ」
私たちは呆然と目の前に立っているコンクリート製の土手を見上げた。
と、今来た方向から路線バスが迫って来るのが見えた。バスは、道の真ん中に止めた私の車めがけパァ~ンと警笛をひとつくれると、巧みに右へハンドルを切って走り去っていった。さらにその後から、これも大型のトラックが同じようにして、私たちへ不審気な一瞥を投げかけて駆け抜けて行った。雨はまた激しさを増していた。
「このままではこの子、踏みつぶされてしまうがな。よっしゃ、俺が崖の上に投げ返してやろう」
「え?そ、そんな無茶な。怪我してしまう」
「大丈夫。こいつも野生の生き物や。それにヒナは身体が柔らかい。そう簡単には怪我したりせんよ」
そう言うやいなや、私はヒナを右手でくるむようにして、下手投げでフワリと崖の上の草むらめがけ投げ込んだ。
「キャ~ッ」
3-3
いちどはフワリと草むらに着地したかに見えたヒナは、しかし野生の本能でなのだろう、翼を開いたために押し戻され、手前の崖のふちに沿ってはえ降りているカズラの長いツルに引っかかって、そのまま羽ばたきながら足許のタケたヨモギの茂みの中へ落ち込んだ。
非難がましい目で私をにらみつけながら、金魚はヒナの落ち込んだあたりへ駆け寄った。雨脚はもっと強くなった。ヒナは草に紛れて見えなくなってしまった。疲れたのだろうか、傷ついたのだろうか、フィフィ言う声も聞こえなくなった。もう見つかりそうもない。
「野のものは野に返せ。人が手を出すもんやナインよ。もう行こう。俺たちがかえれなくなるー」
雨と風に業を煮やして、私は金魚の袖を引いた。
「俺だって可愛そうだとは思ってるんだぜ。でもこの雨じゃな」
「そう、そうやね・・・」
後ろ髪を引かれる思いの金魚が、しぶしぶ乗り込んでくるのを待って私は車を発進させた。
クラプトンのメローなギターは”ティアーズ・イン・ヘヴン”に変わっていた。二人は黙り込んでいた。
「だいたい素人に野鳥の世話は無理さ」
「ウン・・・」
「連れて帰ってから死んだら、そっちの方が罪やで」
「ウン・・・」
「自然に任せるのが一番の優しさってもんさ」
「そうやね」
「ウグイス育てたことあんのかよ?」
「文鳥とカナリヤなら・・・」
「それは鳥屋で売ってる奴やんか。ペットやないか。エサだってヒエやアワじゃない、ウグイスは虫食うんやで」
「ゲッ!虫?」
「しかも生き餌じゃっ!」
「い、生き餌って・・・」
「生きてる虫、動いてるフレッシュ・ワーム。クモとかオケラとかミミズとかーー」
「そうやろうかー」
前方の道が急に狭くなった。風と雨は少し収まっていた。ここを過ぎると山間の細い林道に入り込む。もうUターンする場所がなくなるのだ。私は金魚の横顔を覗いてみた。同じ思いのようだった。私はスピードを緩めた。
「ここから道が狭くなる。戻るならここしかない。おまえ、あのヒナこのままでほんとにいいんか?見捨ててもいいんやな?」
「ーーいいや、やっぱり連れて帰る」
「いつまで育てるつもりや」
「飛べるようになるまで」
「飛べたらどうするんや」
「山に返す」
「ホントやな?」
「オウッ」
金魚に元気印が戻った。ヤレヤレ、それはいいが、山に返すなんてホントにできるんかいな・どうせいざとなったら、寂しいからとか言って俺に押しつけるくせに・・・。
その4
やはり遅かったのか、とって返した崖下のヨモギの群生にヒナの声も姿もない。手分けして辺りを探ってみる。
いない。
雨が強くなる。私は車からジャケットを取り出して、金魚にも着るように声をかけた。金魚は何故かそれを断って、一心不乱にヒナを探し続ける。こんな時の彼女に何を言ってもダメなことを、長いつきあいで私は知っていた。
金魚はTシャツも、その上に引っかけていたシャツブラウスもズブ濡れになったが、意に介さずヒナを探し求め続けた。それだけ私よりも生き物への愛着が強いということなのだろう。
私はといえば、実はかなりあきらめ気味なのだった。ともかく、このまま見つからなくても、それはそれでお互いにとって幸せかも知れない。人の手に育てられた野生が本来の野生になるのかどうか、私には疑問であった。それは正論であっても、しかし今の彼女には冷酷な理屈にしか過ぎないだろう。正しい論理が悲劇を招くことが多いのは特に女に対してであることは私だって知っている。
冷たい雨がジャケットの中にまで浸みてきた。「あきらめようや」と喉まで出そうになりながら、足許に生えたヨモギの、とびっきり背の高い一群をワシ掴みにした時、ふぃふぃとヒナが鳴いた気がした。
「おった、おったデーー」
半信半疑の私の声に金魚が飛んでくる。
「どこ?どこにおったん?」
写真は二枚ともセンダイムシクイ(ウグイスの仲間)の巣立ち直後の雛。まさにピーそのものの姿。
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